山形県鶴岡市にある「社会福祉法人 地の塩会 荘内教会保育園」
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友の為に命を与えたリーパーさん
2019年3月11日
(礼拝カード NO.46 お話 優香先生)
★ ディーン・リーパーさんはアメリカ人ですが、戦後日本にやってきて多くの青年たちを愛し、活躍した宣教師さんです。有名な洞爺丸沈没の際、自分の救命衣を隣の人に与え、33歳で死んでしまいましたが、この語り継がれている話を今日は優香先生がお話してくれました。
★ リーパーさんの家は、アメリカの田舎にありましたが、日曜日になると何キロも離れた町にある教会に出かけるのが楽しみでした。両親や2人の兄弟も一緒です。そこでよく聞かされたのは、小さな命を大事にすること、兄弟を愛することで、特に「人が友の為に命を捨てることほど、大きな愛はない」ということで、これこそイエス様が私達にして下さったことだと聞かされていました。
★ さて、リーパーさんの家には牧場があり、沢山の家畜を飼っていて、小さい頃からその仕事を楽しく手伝っていました。馬も羊も山羊たちもお世話をすると、とても仲良くなり、リーパーさんは学校から帰るとすぐ牧場に向かったのです。ある時、大事にしていた豚小屋からピピちゃんという一匹がどこかにいってしまった時は、大変でした。リーパーは、草原を巡り、山にも川べりにも行きましたが、見つかりません。すると、聖書の「いなくなった一匹の羊」の話を思い出して、元気を出すとだんだん暗くなってきたのに、今度は竹やぶや林の茂っている方に向かい、そこの藪の中からやっと聞こえてくる、ピピちゃんを見つけて大喜び。もう少しでその命が失われそうだったので、その嬉しさは格別でした。
★ またある時、弟のシャーリーと川遊びに行った時のことです。雨の後だったので、「行くな」と言われていたのに行って、弟が川の真ん中、増してきた水の勢いで、流されそうになったのです。「お兄ちゃん!助けて!」との必死の叫び声を聞くと、リーパーももう必死でした。やっと追いついて後ろから首をつかんで岸まで引き上げるのがどんなに大変だったことか。でも、相手は自分の可愛い弟です。「リーパー、よくやった」と親や親戚中からも褒められ、弟も「兄さんは一生の恩人」と感謝しました。
★ さて、大学を終わったリーパーがどんな仕事をしようかと思っていた時、少し前まで戦争をしていた日本の国の話を聞きました。イエス様を伝えるキリスト教が敵の国の宗教だと宣伝されていて、その頃の日本にイエス様の事を知っている人がほんのわずかしかいないというのです。それを聞いて、リーパーの心は「それでは、いけない」と熱くなりました。「よーし、私が宣教師となって日本の人にイエス様のことを伝えよう!」それから色々勉強をし、教会の人の懸命な祈りに送られて、何十日もかけて日本にやってきたのです。初めて目にする日本。戦後の焼け野原の中でみんな懸命でした。子ども達は可愛く、青年達も大きな迷いの中でなんとか生きる道を探していました。リーパーは教会の仕事の他に特にYMCAで青年達をよく指導して、感謝されました。
★ また、北海道に渡り、そこでの活動の為に当時、青森-函館間を往来していた青函連絡船によく乗りました。いつもは楽しい船旅だったのですが、ある時の事です。台風がやってきていましたが、大丈夫だろうということで、出発した船が大揺れ、1600人も乗っていたので大丈夫なはずだったのに、だんだん皆、パニックになりました。救命具が皆に配られましたが、かなりの数が不足しているのです。リーパーの近くに赤ちゃんを抱えた母親がいました。彼は考えました。イエス様のことを思い、聖書の言葉を思い起こしました。そして、思い切って、自分に与えられた救命具をその母親にあげてしまったのです。母親は目を丸くして、「本当にいいんですか?!すみません」と何度も頭を下げました。しばらくして、「ドーン!!」という大きな音と共に、船は沈み、乗客は暗い海に投げ出されました。リーパーも必死で泳ぎましたが、力尽きたようです。そのお母さんは救命具のおかげで助かりました。その時リーパーはまだ33歳でした。これは、偉大な物語ではありませんか。遠いアメリカからやってきて、まだしたい仕事がこれからという時に行きずりの日本のお母さんに命を与えたのです。この話は日本のみならず、アメリカにも伝えられ、多くの人々に感動を与え、リーパーさんの働きを自分たちがするんだと言って、多くの青年宣教師が日本にやってきたのです。洞爺丸事件は戦後の大きな海難事故で、祖父母の皆さんはおそらく記憶にある事でしょう。優香先生が力と気持ちを込めて、語ってくれました。
(まとめ-矢澤園長)
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