山形県鶴岡市にある「社会福祉法人 地の塩会 荘内教会保育園」
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2022年7月5日
手足より自分を失っては ―「本心を探し求める旅路」について―
矢澤俊彦
気がつけばこの世界にただ放り出されている私たち、何の指示も命令も目的も与えられていません。そこで何をしたら良いのか何をすれば幸せになり、悔いなく生涯を終えることができるのかさっぱり分からない。そこでみんなもがき苦しみ迷い悲鳴をあげています。
それは自分が心の底から求めているものが分からない、という悩みです。小さい頃から「大きくなったら何になる?」などと聞かれながら努力をかさねるのですが、大人になるとますます分からなくなることが多いのです。それまではやたら知識を詰め込まれ、今度はそれほど必然性のないきっかけで仕事につき、一日の大半の時間を食うために使わなければならない。子育てなどでぐずぐずしているとたちまち老いがやってくる、ということになります。「自分さがし」と自分に言い聞かせ懸命な人も、果たしてそれに成功したでしょうか。
新約聖書に「放蕩息子」の話という有名な物語があります。父親から多額の遺産贈与を受け、おそらく大志を持ちながらも遠い町で放蕩生活を送り、全てを失ってしまった。金だけでなく、健康も生きる元気も失ってしまったとき、やっと「自分の本心」に立ち返ったというのです。
多くの人々は問題が十分つき詰まらない内に、偶然出会った何かに身を託すなどしているうちに、終幕を向かえてしまうことも多いのです。
問題は私たちが本来持っていたはずの「本心」をどこかで失っていることではないか?それは心の底からのさけび声であり、自分をぎりぎり突き詰めて気づく「これこそ自分だ」というものです。これは自分自身の「魂」といってもよいものです。それを忘れて来たり、落としてきたり、失くしてしまったり・・・、本当は大変なのです。私たちは右目や手足の一本でも失くしたら、大変、大騒ぎをすることでしょう。でも自分自身がどこかにいって行方不明だとしたら・・・、これこそ一大事なのに驚くべきことに、全く平気で騒ぎ立てる人は本当に少ないのです。不思議な人類です。
たしかに自己発見を困難にする要因はたくさんあります。まずこの暑さから始まり、社会的責任や重圧、世間への気遣い、現代の多忙や多量にやってくる情報、また怠惰に流れやすい弱さなどたくさんあります。でもこれらに打ち勝たねばとても半端な人生となるでしょう。「もし自分が全世界を得たとしても自分の魂を失ってしまったら、それにどんな意味があるだろうか」。これは信州長野での小学生時代、近くの銭湯の壁に貼ってあったもので、忘れがたい言葉です。
そこでまず自分を甘やかさないこと、たとえば自分に厳しいことを言ってくれる人に徹底的に批判してもらう。その際、弁解や口実をなるべく言わないことです。でも最高に厳しい言葉は、優れた宗教からやってきます。例えば聖書では、私たちは飼い主から離れた羊のようで、その有様は、食べる青草も水もなく、傷だらけの赤肌を露出させ、うめき続けるばかりなどと描写されています。でもその羊が見出され、拾われ、癒され、本来の牧場に導いてもらえるというのです。こうして失われていた自分自身を発見することはできるのです。
失っている自分の魂を見出すには、人それぞれの道があるでしょう。でもたった一人でそれを歩むのは危険でもあり、不徹底に終わりがちです。それは仏教説話にある「盲亀浮木」(もうきふぼく)の例えもあります。それは目の見えない亀が大海に浮かぶたった一つの材木を探し求めるという意味です。
実は私もこのたび『本心を求める旅路 ―その種は百倍に― 』という小冊子(B5判 60ページ)を出版したところです。皆さんの旅路に少しでもお役に立てれば幸いです。お読みになりたい方がおられましたら、無料でお送りしますのでご一報ください。(電話0235-22-8196)です(鶴岡市本町3丁目 日本基督教団 荘内教会牧師・同保育園長)。
本文は荘内日報に掲載されました
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