山形県鶴岡市にある「社会福祉法人 地の塩会 荘内教会保育園」

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2018年7月10日

愛に深傷を背負う人類
―生きよどむ我らの解放は―

矢澤俊彦

愛に生きる人間

 私達人間が生き生きと生きるのは大変なことです。本能に従ってただ生きる生物と違い、群れをなす仲間の中でしっかり認められ、受け入れられ、愛されることが必要です。それも通りいっぺんの好意では満足しない。あまり「適当な表現ではありませんが、激しく強く愛されることを望んでいる。人間とはかくもぜいたくで面倒くさく出来ている。これは少し自分を見つめるとすぐわかるでしょう。

孤独という最大の苦痛

 そういう人間にとって最大の苦痛は孤独、あるいは孤立というものです。仲間から相手にされず、捨てられ、ひどくなるとこの地上に友と呼べる人が一人もいなくなる、これが苦痛でなくて何でしょうか。自分の存在が無視され、「役立たず」と馬鹿にされ無益なヤツとして追放されたり、生きながら墓に生き埋めにされているような思いすら感じることもあるのです。全く残酷なことです。
 なぜならどんな人でも、自分の心の奥底には、「他人のために多少でもお役に立ちたい」という高貴ともいえる思いが隠されているからです。
 さて読者のみなさん、ここに私達人類のかかえている大いなる矛盾がある。生きようとして生ききれないよどみがある、と気づきませんか。

愛されている、と言う実感がない

 要するにこれだけみんなが愛されることを切望し、有益な仲間になりたいとどんなにか願っているのに、無数の人々が「私は十分愛されていて幸せだ」、との実感を持てず悶々とした孤独感に悩まされているからです。これは病人やお年寄だけではなく、若い世代にも蔓延している気分です。世間を驚かすような事件の犯人を捕らえ、犯行の動機をさぐるなら、「自分に親しい友が一人もいなかったから」、という答えがしばしば返ってきます。さあ、それではどうして私達はこんなに求めている愛にめぐり会えないのでしょう?その答えを今、端的に言いましょう。

需要のみ多く差別的な愛

 それはつきつめていえば、求めている人ばかりで、与える人があまりにわずかであること。愛の需要は無限にあるのに、その供給者がいないという恐ろしいほどのアンバランスがあるからでは、と私は思うのです。
 いや、そんなことはない、この世にも多くの愛がある、と反論の声も聞こえてきます。私もそれを認めましょう。でも次のような不純さがないでしょうか。即ち、私達の愛情は自分の好む相手にだけ向かうこと、またその関わり方も自分本位であり、自己中心的であることです。自分の目に好ましく映らない人は遠ざけてしまうほど差別的な私達。であればこそ、私達は人に比べ価値ある者になろうと必死になります。それは子供たちの勉強に始まり、生涯続く努力となります。今の時代、才能や能力のある人たちがもてはやされるのも、みんなこの世の中から見捨てられたら大変だ、と思っているからです。
 それに付け加えると、その愛情と言われるものの内容や純度が問題なのです。それは自分を与えるより、相手から奪いとろうと熱心になることです。誇張して言えば、みな愛に飢え渇いた狼のようなのです。ここに、私たちの愛の行きづまりがあるのです。

愛に深き傷あり

 人は愛に生きるもの。これはもう無数のラブソングで歌われているとおりです。でもこの大事な愛の力が弱いだけでなく、大きな傷(損傷)を負っているとしたら・・・。これは大変なことです。毎日の生活での大騒ぎ、またこの地上のいとなみにおけるすさまじい騒がしさの原因も分かろうというものです。
 愛において深い傷を負っている人間はそれからいやされようとして必死です。多分私たち人類のほとんどの活動は、この傷のいやしを求めているものとも考えられます。連日のスポーツ観戦もその一つ、間断なく地球をおおっているあらゆるタイプの音楽や歌もその一つです。
 ここでフランスの有名な詩人S.ボードレールの言葉を引用してみましょう。
 人間のすべての文化的働きは、・・・「まぶたの父」を慕う内的衝動に促されている。「すべての文化は、原罪からいやされたい、と願う人間のあがきが生み出したものである」

宗教の出番

 しかし残念ながらいかなる文化的活動をもってしても私たちの愛の深傷を完全にいやすことは、できないのではないでしょうか。そしてここにこそまことの宗教の出番があると思われます。キリスト教について一言ふれますと、神様の言葉を軽んじたアダムたちが、エデンの園から追放された物語は、私たちの「原罪」すなわちすべての人がその心に負った深い傷を意味しているのです。そしてこれをいやすべく登場してこられたのがキリストと呼ばれるメシア(救い主)なのです。この人の愛が徹底的に無差別的であり、個々人の心の奥底まで届く強烈なものであったことを聖書は示しています。
 1903年(明治36年)鶴岡カトリック教会の聖堂竣工式で青年進藤豊吉は、次のような大変印象的なスピーチをしたと伝えられています。
 魚が生きるのに水が必要のように人間が生きるには、深い宗教が必要です。






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理事長・園長 矢澤俊彦

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