山形県鶴岡市にある「社会福祉法人 地の塩会 荘内教会保育園」
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2018年4月 7日
踊り歩み始めた荘内教会
矢澤俊彦
主が手をとって起こせば
よろめく足さえ 踊り歩む喜び これぞ神のみわざ
(讃美歌21-446)
★ 影と本体 「はかなき影のみ、追いさ迷い・・・死にたるさまにていつまであらん」(54年度版-181) 「幻の影を追いて浮き世にさ迷い うつろう花にさそわれゆく 汝が身のはかなさ」(同上-510)
本体、実体にめぐりあえず、その影を本物と取り違えてしがみついているとしたら滑稽を越えて悲劇的です。この状態では力が出ず、疲れ、喜びも感謝もない。どこかおかしいな、と思いつつ、どうしていいか分からない。「ささぐる歌には力もなく、たたえの声だに口にいでず」(同上-181)
私たちはこの150年ほどキリスト教についておよそ学んできましたが、まだとかく絵に画かれた龍かもしれません(画竜点睛)。
★ 異文化と福音 異なる宗教の本質が我々の魂に移植されるには(時代や地域にもよるでしょうが、相当な時間がかかるのではないか。私たち日本人にとって、キリストを自分の内に宿すまでには生涯の闘いが必要なのかもしれません。こんなことを言って、まじめな信者さんを困惑させたり自信を失わせたりしがちであったのは、私です。今これをざんげします。時代も文化も違っていても、求めてくる人に救いは伝達できるはず。ザアカイもペテロも・・・。賀川(豊彦)さんだって、16歳のとき、宣教師マイアーズの教えを受けて、即座に決断したと言われています。
★ きうり畑のかかし でも多くの人の場合、まず知識や理屈から入る。そしていつまでも頭の中であれこれ葛藤をしている場合が多いのです。旧約の預言者エレミヤはとても辛辣です。
「(それは)きうり畑のかかしのようで、ものを言うことができない。目があっても見えない。耳があっても聞こえない。歩くこともできないので、人に運んでもらわねばならない」(同書10章:5、21)。
自分の信仰の無力さや、むなしさを感じるのは、神様が観念とイメージだけで(コロサイ3章)、その神様への畏れもおののきもあまり感じていないからです。それは、異邦人の偶像崇拝や「先祖伝来の空疎な生活」(ペテロ前書-1章)と本質的に違いはないのです。この段階での宗教生活は生命を欠いた形式的なもので、礼拝出席も義務的であり、疲れやすく、不満も出やすいのです。(マラキ書3章)。
★ 復活という突破口 しかし本来の信仰は、そういう死人のような私達に命を吹き込み、真の人間として再創造される大いなる出来事なのです。文字通り、陰府(よみ)の国で苦しんでいた人が、生ける者の世界に呼び戻され、新たに造られること。無に等しかった我々が有の世界に引き上げられるのです。そこで私達はもう別人のように生き生きした人格となり(ルター)、周囲に光を放ち始めるのです。それまでは人間という形をしたロボットであり、野獣であり、奴隷であるに過ぎなかったのです。
★ 偽善の発見 それでは私たちが単に救いや光のイメージや影ではなく、その救いの実体に迫るにはどうしたらいいのか、ハードルは高そうです。でも、私がそれをクリアできたのは、ある時、自分の「偽善的信仰」に気づいたからです。
「光の中にいるといいながら、その兄弟を憎む者は、今なお闇の中にいるのである」(Ⅰヨハネ1:29)。
私どもの無意識の世界に頑強に根を張っている装い(エレミア13:23)。これによって自己防衛をしてきた自分。私はまさに死人であり足なえであり、きうり畑のかかしでした。そこから私は人間として生まれ変わることができたのです。すると、愉快なことに、それからは、まるで水を得た魚のようなのです。
★ 泣く声は聞かれる 神様を恐れ、逃げ隠れしていた時の悩み葛藤は、ローマ書7章が記す通りのものでした。即ち、「ああ、私は自分が欲している善は行わず、欲していない悪はこれを行っている。・・・私はなんというみじめな人間なのだろう。誰がこの死の体から私を救ってくれるだろうか」(同16-24)。
でもこの苦しみを、苦しみぬく姿を神様は見ておられます。
「すべて悪をなす者よ、わたしを離れ去れ。主はわたしの泣く声を聞かれた」(詩篇6:8)。
この突破口が開かれるなら、思いもかけない大きな喜びがやってきて、すべてを順調に運んで行ってくれるでしょう。まず広範囲な和解とざんげが開始されます。それは最初に自分自身、そして、自分の過去、さらに家族はじめ周囲のすべての人々です。実際これまで出会ったすべての人達(約1万人?)は、私をキリストまで導いてくれた「養育係」(Ⅰコリント:4-15)として自分に奉仕してくれたのです。感謝、感謝です。
★ 禅もイスラムも恐れず そんなある日、私は「音の風景」(NHK-FM)で禅寺での修行僧の生活を聞いていた時、ふと「ああ、なんとご苦労さんなこと、この人たちはこれをもう千年以上も続けているのか」との思いとともに、再び名状し難い法悦が湧き出してくるのを覚えました。「業(行為)によらぬ義認(救い)」(ルター)のありがたさ。出羽三山の修行もイスラム教徒の定時の祈りの行も、何だか哀れに見えてきます。そしてこれからやっと伝道らしきものができそうな予感がしているのです。
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